亀戸に残る文豪の記憶を辿る企画の後編。再び、亀戸に積もる文学の旅に出よう。
※このページでは、明治・大正時代のイメージに合わせて、現代の風景をセピア色の写真でお届けしていきます。
亀戸に深い縁のある文豪といえば、やはり若い従姉弟同士の悲恋を描いた『野菊の墓』で知られる伊藤左千夫だろう。元治元年(1864)に千葉県で生まれた伊藤は、20代半ばから現在の錦糸町駅前で牛舎を営んでいた。それゆえ亀戸にも知り合いが多く、『牛舎の日記』や『草花日記』の中には亀戸を訪れた記述が残っている。
錦糸町駅前広場にある「伊藤左千夫牧舎兼住居跡」の碑
また、37歳の頃に正岡子規に弟子入りした伊藤は、子規の門下が結成したアララギ派の重鎮として、小説を書く前から歌人として有名だった。伊藤は亀戸天神の藤を下記の歌に詠んでいる。
亀井戸の藤も終りと雨の日をから傘さしてひとり見に来し
池水は濁りににごり藤なみの影もうつらず雨降りしきる
いずれも亀戸天神の藤を詠んだ歌だろう。傘をさし、錦糸町の自宅から亀戸天神を目指していそいそと歩いた伊藤の姿が想像できる。なお、後者は死の直前の太宰治が色紙に書いて友に送ったという逸話の残る歌でもある。
亀戸天神の池でスイスイと楽しそうに暮らす亀たち
また、酪農で生計を立てていた伊藤にとって、この地でたびたび起こった水害は、大事な稼ぎ頭を失いかねない大敵だった。上の歌にも当てはまるが、彼には「雨」を連想させる表現が多い。その際たるものが、明治43年(1910)に襲った大洪水の記録が書かれた『水害雑録』だ。
宵から降り出した大雨は、夜一夜を降り通した。豪雨だ……そのすさまじき豪雨の音、そうしてあらゆる方面に落ち激つ水の音、ひたすら事なかれと祈る人の心を、有る限りの音声をもって脅すかのごとく、豪雨は夜を徹して鳴り通した。
−伊藤左千夫『水害雑録』より引用
当時の雨量の凄まじさを伝える記述である。そして二日間、昼夜にわたって降り続いた大雨で牛舎にも浸水が起こる中、居ても立っても居られない伊藤は心を紛らわそうと天神川(横十間川)の様子を見に家を出ている。
横十間川
干潮の刻限である為か、河の水はまだ意外に低かった。水口からは水が随分盛んに落ちている。ここで雨さえやむなら、心配は無いがなアと、思わず嘆息せざるを得なかった。水の溜ってる面積は五、六町内に跨がってるほど広いのに、排水の落口というのは僅かに三か所、それが又、皆落口が小さくて、溝は七まがりと迂曲している。水の落ちるのは、干潮の間僅かの時間であるから、雨の強い時には、降った水の半分も落ちきらぬ内に、上げ潮の刻限になってしまう。上げ潮で河水が多少水口から突上るところへ更に雨が強ければ、立ちしか間にこの一区劃内に湛えてしまう。自分は水の心配をするたびに、ここの工事をやった人の、馬鹿馬鹿しきまで実務に不忠実な事を呆れるのである。
−伊藤左千夫『水害雑録』より引用
豪雨がふりしきる中、事細かに状況を把握している伊藤の冷静な目が光る。結局、材木屋に走り、牛舎を床上げして急場をしのいだ伊藤は、大雨が過ぎ去った後に再び天神川の様子を見に訪れている。
天神川も溢れ、竪川も溢れ、横川も溢れ出したのである。平和は根柢から破れて、戦闘は開始したのだ。もはや恐怖も遅疑も無い。進むべきところに進む外、何を顧みる余地も無くなった。《中略》うず高に水を盛り上げてる天神川は、盛んに濁水を両岸に奔溢さしている。薄暗く曇った夕暮の底に、濁水の溢れ落つる白泡が、夢かのようにぼんやり見渡される。恐ろしいような、面白いような、いうにいわれない一種の強い刺戟に打たれた。遠く亀戸方面を見渡して見ると、黒い水が漫々として大湖のごとくである。四方に浮いてる家棟は多くは軒以上を水に没している。なるほど洪水じゃなと嗟嘆せざるを得なかった。亀戸には同業者が多い。まだ避難し得ない牛も多いと見え、そちこちに牛の叫び声がしている。
−伊藤左千夫『水害雑録』より引用
結果的に10万人以上の命を奪ったとされるこの洪水が、荒川放水路の整備のきっかけになっていくのだが、一酪農家の視点からつぶさに綴られたこの雑録は、この東京における歴史的災害の恐怖を今に伝える貴重な記憶といえる。
普門院にある伊藤左千夫の墓
大正2年、48歳の若さにして大島の転居先で亡くなった伊藤の墓は、亀戸3丁目の普門院にある。文学に秀で、茶を嗜み、牧歌的な暮らしを愛したバイタリティ溢れる男は、斎藤茂吉ら数々の文士たちの師としても文学史にその名が刻まれている。
永井荷風、吉川英治が愛した「船橋屋」のくず餅
前半では芥川龍之介と「船橋屋」とのエピソードを紹介したが、船橋屋はその他の文豪の心も掴んでいる。なかでも、ユニークなエピソードが残しているのが、『宮本武蔵』や『三国志』などの歴史小説で知られる吉川英治だ。
船橋屋本店
明治25年(1892)に横浜で生まれた吉川が執筆につかれた際の好物は、パンに黒蜜を塗った「蜜パン」だった。作家として大成した後もこの味を好み、様々な黒蜜の中から探し当てた最高の一品が船橋屋のくず餅にかける黒蜜だったそうな。
吉川英治が揮毫した看板
船橋屋本店の喫茶ルームには吉川の揮毫による大看板が飾られているが、大きな文字を書かなかった吉川がこれを書いたのも、そうした縁があったからだそう。あの黒蜜をくず餅にかけずにパンにかけるとは、文豪のこだわりには我々に計り知れないものがある。
もう一人は、稀代の「偏愛作家」として知られた永井荷風だ。明治12年(1879)に東京の高級官僚の家に生まれた荷風は、常にバッグいっぱいの大金を持ち歩いたり、とにかく女性にだらしなかったりと奇行的な逸話にこと欠かない。ただ、美味いと認めたものには、とことんそれにハマる偏食の作家でもあった。そんな荷風が船橋屋のくず餅について、小説『冷笑』の中で亀戸天神でのワンシーンとしてこう書いている。
今年六ツになつた蝶ちやんは母親諸共に叫んで、早速に花簪を買つて貰つた。そして池のまはりを一周した後、水際に張出した休み茶屋の敷延べた赤い毛布の上に坐つて、池の鯉に麩をやりながら名物の葛餅を食べた。葛餅は敢て蝶ちゃんばかりが好んで食べたのではない。母ちゃんのおきみさんも三角形に切つた大きな片の二ツ三ツを成りたけ澤山黄粉と砂糖のついて居る慮を選んで續けて口の中に入れたのである。
ー永井荷風『冷笑』より引用
おそらく耽美派の代表作家といわれ、あらゆる美を荷風にとっても、船橋屋のくず餅は自作の中に取り入れたいほど魅惑的な甘味だったのだろう。
さて、亀戸と文豪たちのストーリーをお届けしてきたが、いかがだっただろう。なお、亀戸天神の藤は既に今年のシーズンを終えてしまったが、伊藤左千夫らを魅了した萩寺の萩の花は秋に見ごろを迎える。まだしばらく自由に外出というわけにはいかないが、秋にはぜひ萩寺を訪れて、萩の花言葉である「思案」をめぐらせながら、皆さんも一句詠んでみたりするのはいかがだろうか。
Edit by カメイドタートルズ編集部