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  • >【前編】令和と昭和の亀戸を写真で比較! 在住60年以上の亀戸っ子が語る「町の歴史と記憶」

時代が令和に変わっても、懐かしい街並みと都会的な建築物が共存し、温故知新の風情が漂う亀戸の町。商店街や鉄道の線路沿いを歩いていると、商店の軒先や古びた看板などからこの町に積み重なった歴史の一端を感じることがある。

この町はどんな時間を歩み、僕が知らない昭和の亀戸ではどんな景色が見えたのだろうか。そんな亀戸の歴史を辿ってみたい。

令和の亀戸と昭和の亀戸の町を写真で見比べてみよう!

そんなきっかけから始まった、ちょっと昔の亀戸を知ってみよう企画。江戸時代でもない、明治時代でもない。半世紀くらい前の「ちょっと昔」というのがミソ。今と昭和中ごろの写真を見比べながら、亀戸の昔を知る方々に町の思い出を伺っていきます。

第一弾となる今回は、亀戸六丁目の六東会館で、亀戸六丁目東町会の齊藤庸一会長と武田道男副会長のお二人にお話を伺いました。昭和24年(1949)生まれの齊藤さんは5歳の時に錦糸町から亀戸に転居。昭和18年(1943)生まれの武田さんは生まれた時から亀戸に住む、2人揃って生粋の亀戸っ子です。


亀戸六丁目東町会の齊藤庸一会長(左)と武田道男副会長(右)

齊藤さん(以下、齊)
「ウチは祖父が錦糸町で商売をしていて、そこから親父が独立するっていうんで、こっちの方で土地を探して消防署の近くで店を始めたんです。お、これは亀戸天神だね。今も昔とあんまり変わらないけど、昔の写真で見ると懐かしいねぇ」

武田さん(以下、武)
「これは精工舎だね。僕が生まれた頃は今の第二幼稚園あたりにウチがあったんだけど、昭和30年代の後半から区画整理があって、その際に精工舎の裏手の方に引っ越したんですよ」

昭和30〜40年代頃の亀戸の写真を机に広げると、さっそく子ども時代の思い出話に花が咲くお二人。これは楽しい話がたくさん飛び出しそう!

職人と工員が行き交った半世紀前の「京葉道路」(左右にスライドすると今昔が比べられます)

《京葉道路の今昔》


古写真:「江東区史」より転載 提供:江東区
★昭和30年代頃の「京葉道路」はこんな景色だった…
昭和30年代後半に区画整理が行われるまでは道幅も今より狭かった京葉道路。奥に見える大きな建物は、昭和14年(1939)から平成5年(1993)まであった第二精工舎(現・セイコーインスツル株式会社)の本社工場。第二精工舎の移転後、跡地には平成9年(1997)から平成28年(2016)までサンストリート亀戸があった。昭和の亀戸は東京における重工業の中心地のひとつであり、少し前の時代の資料になるが、昭和14年に発行された「亀戸駅を中心とする交通調査報告書」には、「昭和12年12月現在においては工場数2002で35区(※注)中第4位、従業員数40044人で35区中第3位、生産額は3億を超えて35区中第1位という状態である」とある。当時の隆盛ぶりを伝える記録だ。(※注:当時の東京23区は35区に分かれていた)

このあたりは亀戸の中でもお二人にとって縁の深い地域ですよね。お二人が子どもだった昭和中ごろのこのあたりの雰囲気はどんな感じだったのでしょう。

齊「精工舎は当時、隅田川よりこちら側では錦糸町の江東デパート(現在の東京トラフィック錦糸町ビル)と並ぶ一番大きな建物でした。小学校の3、4年生くらいになると、学校がお願いして子どもたちみんなこの屋上に上げてもらってね。町全体が見渡せましたよ。」

「家の近所でもザリガニが捕れたよ」と齊藤さん

ところで精工舎の時代を知る皆さんは、SEIKOのことを今でも「精工舎」って呼ぶんですか?

武「そうそう。途中でセイコー電子工業に社名が変わったけど、大体、昔を知ってる人は今でも精工舎って言っちゃいますね(笑)」

齊「精工舎は女工さんたちの給料もいいことで有名でしたね。だから、給料日には入り口の近くで本人たちの家族なんかがよく出待ちしてました。周りの店も化粧品がたくさん売れて、当時この辺にあった薬局は随分と儲かったんじゃないかな」

今では住宅地というイメージが強い地域ですが、昔は工業が盛んだったんですね。

齊「今の亀戸中央公園にも日立の大きな工場がありましたからね。すぐそこはガラス工場だったし、テレビやステレオのキャビネット工場とかピーナッツバターの工場なんかもあったな。あと、ベークライトの食器を作っている工場があったり…」

武「錦糸町と比べると、当時は亀戸は工業の町、錦糸町は商業の町という感じでした。ただ、都の方針もあって昭和40年代になると大きな工場の多くが郊外に移ってしまって、その下請けで仕事をもらっていた企業も段々と減りましたね。ただ、そうした工場の跡地にマンションが建ったりして、町の色がガラリと変わるきっかけになりました」

齊「あの頃は外から大きい工場に通ってくる人も多かったですね。当時はまだ都営新宿線(※注)もなくて、亀戸駅が唯一の公共交通の要所だったから、京葉道路の両脇には各工場の送迎バスがすごい数でしたよ。帰りは駅前の通りでバスを降りて、そこから飲みに行くから、このあたりや西六丁目あたりも賑わっていました」(※注:都営新宿線の岩本町ー東大島間の開通は1978年)

「同じ建物の通路の両脇にお店があって…」と武田さん

武「昔はこの六東会館の周りにも商店がたくさんあって結構にぎわっていたんですよ。今はマンションになりましたけど、すぐそこにも六東スーパーという昔ながらのスーパーマーケットがあって、同じ建物の中に八百屋や肉屋、魚屋など、建物の中の通路の左右にいろんな食料品店が集まっていました」

齊「それとその六丁目の信号の角、今は保育園になっているけど、確かあのあたりに立ち飲み屋があって。夕方になると仕事を終えた大人たちがワイワイと一杯やってたね」

ひと昔前の亀戸は、野生の自然がすぐそこにあった

この写真の風景。僕たちはどこか解らなかったんですけど、これも京葉道路ですか?

《亀戸九丁目あたりの今昔》


古写真:「江東区史」より転載 提供:江東区
★ 市民の足として活躍した「都電」の記憶
大正2年(1913)から昭和47年(1972)まで亀戸の町を走り、「チンチン電車」と親しまれていた路面電車。戦後間もない昭和24年(1949)に区内の全線が開通し、江東区の西荒川から千代田区の日比谷公園に至る25系統、江東区の葛西橋から千代田区の須田町に至る29系統、錦糸町の錦糸堀車庫から日本橋に至る38系統が亀戸の京葉道路や現在の亀戸緑道公園沿いを走っていた。現在の亀戸緑道公園は、当時の軌道の跡地を利用したものだ。

齊「これは九丁目の交番あたりですね。奥の方に都電が走っているでしょう。今でも亀戸中学校には都電のレールの一部が飾ってありますよ。この手前にいる自転車はたぶんシジミ売りかな?」

武「アサリ売りかシジミ売りだろうね。葛西や浦安の方から毎朝こうして売りに来てたんですよ。ほかには、豆腐なんかも自転車で売りに来て、味噌汁に使うって言ったら、その場で賽の目に切ってくれてね」

亀戸緑道公園には都電の記憶を伝えるモニュメントがある

そんな亀戸の町で子どもの頃の皆さんはどんな風に遊んでいたんですか?

齊「今と違って、あの頃は近所の家の裏手や物置なんかにも入れたりして。いろんな場所を使って隠れんぼをよくしていました。それから空き地がたくさんあったから三角ベースの野球をやったりね。子どもの遊び場がたくさんあって、漫画に出てくるようなガキ大将がいて、その統率でいろんなところを遊び歩いていました」

武「僕たちが子どもの頃は、いま首都高速の下にあった川で泳げたんですから。フナが獲れたりして綺麗な川だったんですよ。台風の翌日なんかは魚が浮いて、みんなで獲りに行っていたくらい。あとは都電の橋がかなり低かったので、そこから川に飛び込んだりね(笑)」

かつては首都高速の下も川だった

当時は今では考えられないほど野生の自然が身近にあったんですね。

齊「そうですね。総武線が複々線化される前には、国鉄線と京葉道路の間にも水場があって、ドジョウがいたり、ザリガニがいたり」

もしかしてカブトムシなども採れたんですか?

武「さすがにカブトムシはほとんどいなかったけど、カエルやトカゲはたくさんいましたよ。」

齊「トンボもね。大きいオニヤンマが飛んでいました」

武「コウモリもよく見かけたなぁ。でも、あの池は工場の廃棄水で黄色い水や紫色の水が流れてて、みんなで色水だって騒いでたよね」

お二人「ハハハハハハ……」

ざっくばらんに子ども時代の思い出話を語るお二人。さらに話題は亀戸駅前の思い出や懐かしの蒸気機関車、トロリーバスなどへ。この続きは後半で。

※本記事の取材は、政府の7都府県に対する緊急事態宣言の発令前に、取材対象者との距離、取材時間等を十分に配慮して行いました。

Edit by カメイドタートルズ編集部